平野前総長の新型コロナウイルスに関する書下ろしエッセイをご紹介します

東京待兼会会員の皆様

ようやく猛暑が去り、秋らしい日が増えてきたうようですが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。

先日咲耶会東京支部便りが発行されましたが、平野前総長の新型コロナウイルスに関する書下ろしエッセイが掲載されています。できる限り多くの阪大OBの方にお読みいただきたいとのご意向があり、咲耶会のご厚意によりエッセイを転載させていただくこととなりました。

国内のコロナ禍は第2波がようやく終息の兆しがみえてきましたが、欧州、インド、ブラジル等では拡大の勢いが衰えていません。米国や日本でも第3波とインフルエンザの重複流行(ツインデミック)を懸念する声も大きくなっています。

平野前総長がおっしゃるとおり、「引き続き油断することなく、感染防御に努める」必要があると存じます。

このエッセイが少しでもお役に立てれば幸いです。

東京待兼会 会長
西本 麗(28期)

COVID-19:当初考えられていたほど恐れる必要はないが、引き続き油断せずに感染防御に努めて社会活動を進めるべき~ 平野俊夫、2020年7月28日

平野俊夫 前大阪大学総長

私は7月7日から23日まで阪大病院に入院していた。4月から5月末まで大阪自宅で在宅勤務を続けたが、この間COVID-19関係の取材や論文作成、あるいはウェブによる各種会議、そして講演や講義でいつもより多忙を極めていた。朝から夜までコンピューターと向き合うという極めて不健康な生活を送った。その結果、6月中旬から間欠性跛行の症状が現れ急速に悪化し、6月末には100歩も歩けなくなった。右足の浅大腿動脈に28cmに渡る閉塞が認められ右足の血流量は左足に比較して20%以下という状態になった。どうやら短期間に大量の血栓が生じて動脈が閉塞したらしい。まさにコロナによる自宅勤務が招いた一種のエコノミー症候群である。幸い、阪大病院での治療の結果、現在急速に回復しつつある。17日間の入院中に生じた検査疲れと治療疲れが蓄積しており、足の筋肉のリハビリに加えて頭もリハビリする必要がある状態にある。

そのような頭ではあるが、世界を見渡すと、新型コロナウイルスの嵐が吹き荒れている。中国に端を発した感染流行はヨーロッパへ、そしてアメリカからブラジルを中心とする南米や、ロシアやインドへと広がった。さらに、アフリカでの感染流行の行方が懸念される状況である。5月4日に中央公論7月号(注1)に寄稿した時点の世界の感染者数は360万人であったが、現在1600万人を突破し、わずか3ヶ月足らずで4倍以上に増加した。そして日本では5月末に収束に向かいつつあった感染流行の波が、再び増加に転じつつある。人々はこれを第二波と呼ぶ。しかしこれは第一波が収まっていなかっただけで、緊急事態宣言の解除とともに人々の接触が再開されて再燃しているだけと考えられる。

新型感染症対策の正道は、感染者の隔離と医療体制の整備であると私は考えている。そのためには検査体制を整備するとともに感染者の隔離体制を整備しなければならない。また重症化を少しでも少なくするための医療体制の整備が必要である。もちろん、ワクチン開発と治療薬の研究開発は最重要課題であり、根本的解決につながる。4月末の時点から3ヶ月経過した現在ではCOVID-19に対する情報量は急激に増えた。中央公論に寄稿文を投稿した5月4日の時点と現在の時点では状況がかなり異なっている。

65歳以下の人が重症化するリスクは非常に低く、感染者の80%は無症状か軽症で治癒する。しかし、厄介なのは無症状者や軽症者でも感染力は十分にある点である。すなわちこのウイルス感染症はステルス戦闘機のごとく人々が知らない間に市中に広く流行していくという点である。また20%の重症者の30%ぐらいは致死的な重症肺炎に陥る。時には多臓器不全になり命を落とす。重症化が免疫の暴走であるサイトカインストームで起こることもわかりつつある。現に免疫抑制剤であるデキサメサゾンが致死率を約30%低減する効果があることが明らかになった。またサイトカインストームに効果があるとされるインターロイキン6(IL−6)の阻害薬(アクテムラ)が有効であるという結果も報告されつつある。さらに、降圧剤として高血圧の治療に使用されているレニン・アンジオテンシン系の阻害薬がCOVID-19重症化阻害に有効である可能性を示す結果が報告されている。また、COVID-19から回復した人の血液に存在するウイルスに対する抗体がCOVID-19治療に有効であることも明らかにされた。さらに世界中で同時並行的にワクチンの開発が進行しており、そのいくつかでは第3相臨床試験がすでに始まっている。もちろん有効なワクチンがいつ完成し世界に行き渡るかは誰にもわからない状況ではあるが、これほど様々なワクチン開発が世界で同時に進行するのは人類の歴史で初めてのことだと思う。このようにCOVID-19に対する治療方法やワクチン開発に明るい話題が増えてきた。
さらに、幸いなことに致死率(4−5%)は当初考えられていたよりも低いと考えられる点である。抗体検査の結果から、おそらくPCR検査で確定された感染者数(現在1600万人で死者は65万人;致死率は約4%)より、実際は10〜30倍は多いと考えられているので、致死率は当然10分の1〜30分の1となる(0.4%~0.13%)。また、集団免疫閾値(集団の何%が免疫を獲得すれば感染流行が収束するかの%)も60%と考えられていたが、そもそも、その算定根拠である基本再生産数(一人の感染者が感染させることができる人数)の決め方に問題があったと思う。中央公論でも説明したが、基本再生産数は、1)ウイルスの性質、2)感染される人の遺伝的要因や免疫的要因、3)社会的要因の3つで決まるのであり、決して絶対的な数値ではない。当然ヨーロッパのそれと日本のそれは異なる。また、社会要因を意図的に変えることにより基本再生産数を低くすることも可能であり、結果として集団免疫閾値は低くなる。基本再生産数をヨーロッパと同じとして考えると日本でも60%が免疫を獲得するまで収束しないことになり、その結果として死亡者の推定値は大きくなる。しかし、集団免疫閾値が低ければ、予想される死者の数は少なくなる。また免疫といっても抗体に代表される獲得免疫だけを考えると間違った答を導きだすことになる。ウイルスなどの病原微生物に対する生体防御反応はウイルスが侵入してくると直ちに反応できる自然免疫反応と、遅れて生じる獲得免疫反応があり、両方の反応により病原微生物を撃退する。獲得免疫にも抗体で代表されるBリンパ球とヘルパーTリンパ球やキラーTリンパ球反応がある。獲得免疫は、一度罹った病気に対しては記憶を有しており2回目に同じ病原微生物に感染すると迅速に、かつ強く反応する。同じ病気には2度はかからないか、罹っても軽くて済む。一方、自然免疫は病原微生物の種類に関係なく素早く反応できるが免疫記憶能力は有していない。しかし、BCG接種などで本来の病原菌とは関係ない病原微生物に対する自然免疫反応が強くなる現象が報告されている(訓練免疫とも呼ばれている)。仮に集団免疫閾値が60%であれば、自然免疫と獲得免疫を合わせた免疫力と遺伝的要因とを総合した病原微生物に対する対応力を、ある集団の60%の人が獲得すれば良いということになる。したがって単に感染者が60%に達する必要性は全くない。また、集団免疫閾値は基本再生産数により決まるので、社会要因などを変えることにより(いわゆる行動変容)集団免疫閾値はさらに低くすることが可能である。

日本は感染者、死者数ともに少なく、対策は成功したと考えられている。しかし、たまたま、遺伝要因や社会的要因などが幸いしたとも考えられる。現に台湾では人口100万人当たりの感染者数は19人(日本は228人)で死者は0.3人(日本は8人)、ベトナムは4人で死者はゼロである。これは感染症対策が日本より優れていた結果と考えられる。日本だけではなく一般にアジア系は人口100万人当たりの感染者数や死者の数が欧米と比較して1桁から2桁少ない。例えば、医療崩壊していないドイツと日本を比較してみると、感染者数は2467人 対 228人 (感染率:0.25% 対 0.023%)であり、死者数は110人 対 8人である。日本はドイツのそれぞれと比較して1桁か2桁少ない。しかし致死率は4.4% 対 3.5% とほぼ同じである。要するに日本人(アジア人は)はドイツ人(ヨーロッパ人)に比較して感染しにくいと言える(日本の感染率はドイツの10分の1)。しかし検査数が少ないので、本当は、感染率は同じかもしれない。もし感染率が同じなら、致死率はドイツの10分の1となる。しかし、このような極端なことはなく、おそらく感染もしにくく、重症化もしにくいと考えられる。

その理由としては、1)ウイルスの違い、2)遺伝的要因、3)自然免疫や免疫交差、4)社会的要因が考えられる。BCGは上述したように自然免疫を高めるし、現に例外はあるもののBCG接種國では感染者数や死者の数は少ない。また遺伝的要因としてアンジオテンシンテン転換酵素(ACE)遺伝子の多型が報告されている(日本人やアジア人はACE発現が少ない遺伝子を有する人の割合が多い)。その他、東南アジアでは風邪コロナウイルス感染流行が持続していた結果、免疫交差(風邪のコロナウイルスに対する免疫記憶が弱いながらもCOVID-19ウイルスに対して反応する)を有している人の割合が高いなどが考えられる。さらに人と人との濃密な接触が少ないという社会的要因も考えられる。おそらく以上の様々な要因の組み合わせの結果COVID-19に関しては欧米人よりはアジア人の方が感染率も少なく重症化も少ないのではと考えられる。感染症はその地域の過去の感染症の歴史が反映される。例えば北欧人の15%はエイズ耐性である。これらの人々はエイズが受容体として使用するCCR5に変異を有しており、結果としてエイズウイルスの感染を防いでいる。ヨーロッパでは天然痘に苦しんだ歴史がある。実は、天然痘ウイルスもCCR5を受容体として使用している。過去の天然痘流行の歴史を生き抜き、自然選択された結果と考えられる。アジアでも過去のコロナウイルスなどの感染症の歴史が、コロナウイルスに耐性になるようにACE遺伝子や免疫応答遺伝子の自然選択が誘導された結果かもしれない。

このように、COVID-19は、当初考えられていたほどの脅威はないかもしれない。少なくとも日本を含むアジアの人々にとってはそうである可能性は非常に高い。もしそうであれば、可能な限りの在宅勤務の推進や、社会的距離を取ることを個人や社会のレベルで積極的に推進するとともに、手洗いなどの感染防御に努めることにより、社会活動を限りなく正常化することは可能であると考えられる。ただし、油断は禁物である。ウイルスが常に変異しており、いつ強毒化するかもしれない。もちろん弱毒化する可能性もある。政府としてはこのようなことを常に心して、ワクチン開発や治療薬開発を推進するとともに、手綱を緩めることなく感染症対策の基本中の基本である医療体制と検査体制の整備を粛々と進めてほしい。いや進めなくてはならない。今の日本を見ていると、どこかに油断が垣間見れる。また、過去の経験を今回こそは生かし、政府は危機管理センターを設立するなど、ぜひとも将来に備える政策を実行してほしい。
新型コロナウイルスは、いみじくも私たちに、「世界は1つである」こと、「国境はないこと」を教えてくれた。最近芽生えつつある、グローバル化から一国主義、協調から対立へ、信頼から疑心暗鬼への流れに新型コロナウイルスは警鐘を鳴らしている。世界は協調しなければ新型コロナウイルス感染症を克服することはできない。「地球市民」としての自覚と、「相手の立場を尊重し、信頼し、助け合う、連帯と協調の精神」が重要だと思う。
人類の歴史は多様性ゆえの発展と対立の歴史であった。多様性ゆえに心豊かな生活を送ることができる。また、多様性はイノベーションの源泉でもある。一方、多様性ゆえに対立や紛争、そして幾多の戦争を経験してきた。一方、学問、科学技術、芸術やスポーツは人類共通言語であり、多様性の壁を乗り越える大きな力を有している。私たちは、宗教や言語が異なっていても、これらの人類共通言語を介して心を通じ合うことができる。人類共通言語により、私たちは多様性の壁を乗り越えて、世界中の多様な人々と交流し、異文化理解や異文化尊重を育むことができる。その先に、平和で心豊かな人類社会の発展がある。インフルエンザやコロナウイルスなどの感染症も、また多様性の壁を楽々と乗り越える。感染症はある意味で人類共通言語であるとも言える。

このような時だからこそ、「調和ある多様性の創造」(注2)は、かってないほど重要になっている。人類の命運がかかっている。
人類は1万2千年前に農耕時代に入り、人類社会に大変革がもたらされた。その1つに感染症がある。現在の多くの感染症は農耕時代に牛や馬などの野生動物が家畜化されたことにより人類社会にもたらされた。そして、感染症は人類の歴史をも塗り替えてきた。中世ヨーロッパではペストの大流行により人口の50%の人が亡くなり、中世封建体制は崩壊した。またインカ帝国やアステカ文明はスペイン人がもたらした天然痘によりわずか一年で崩壊した。人類の歴史は感染症との戦いの歴史であると言っても過言ではない。そしてその戦いは今もなお続いている。

人類20万年の歴史において、少なくとも5つの大きな変革の波に見舞われてきた。私は、18世紀末から始まった産業革命に端を発する第4波は2度の世界大戦と冷戦を経験後、1989年のベルリンの壁崩壊により終結し、今は多様性爆発の第5波にあると考えている(注3)。 1989年のベルリンの壁崩壊により、世界がいっきにグローバル化した。そして、インターネットなどの情報通信と移動手段の急激な発展と人口増加により地球の相対的狭小化が爆発的に進行した結果、各地で紛争が絶えず生じ、多様性の爆発の兆候すらある。同時に、エボラ出血熱、デング熱、サーズ、新型インフルエンザ、マーズ、そして鳥インフルエンザなど、感染症爆発の兆候が続いていた。そして、ついにCOVID-19パンデミックが発生した。同時に、地球温暖化などの環境問題や水や食料そしてエネルギー問題が人類社会に刻々と暗雲を投げかけている。さらに、生命科学が一線を超えて、ゲノム編集/デザインベイビー、再生医学/生物学的寿命のブレイクスルー、脳科学/心の操縦など、神の領域を侵しつつある。その一方ではサイバー空間と現実空間の融合が進み、情報が氾濫し、人々は情報に縛られ情報が社会を支配しようとしている。今人類は20万年の歴史上、第5波という大きなうねりの中にいることは間違いない。人類の英知と科学技術を結集して第5波のうねりを乗り越え、平和で心豊かな未来社会に繋げなければならない。このような状況でCOVID-19パンデミックは起こるべくして生じた。COVID-19のようなパンデミックは歴史的には珍しいことではない。COVID-19は時間の問題で必ず収束するし、現代医学や科学技術を利用すれば過去の感染症流行よりもはるかに早く解決するだろう。世間ではポストコロナの時代はどうなるかという論議が盛んである。しかしCOVID-19は第5波という大きなうねりの中に生じた1つの現象でしかない。COVID-19だけを見つめると大局を見失う。

1日も早く、ワクチンや治療薬が開発されてCOVID-19が世界で収束することを願っている。その間、過度に恐れる必要性はないが、決して油断はしてはならない。政府は医療体制や検査体制の整備をした上で、社会活動を可能な限り推進していかなければならない。また、感染症だけでなく放射線災害や自然災害を一元管理する危機管理センターを設立しなければならない。企業も感染防御対策の基本を忠実に実行して、リモートワークなどを利用しつつ企業活動を果敢に進めていかなければならない。政府と企業がしっかりとした対応を素早く実行すると同時に、個人のレベルでも自分たちが何をすべきかをしっかりと考えて行動することが肝要である。

(注1)
中央公論7月号「医療体制を整備し、COVID-19を克服せよ ~集団免疫とワクチン・治療薬の最前線~(文・平野俊夫)」

(注2)
「調和ある多様性の創造」:人類共通言語を介して、多様性の壁を乗り越えて、多様性の調和をはかることにより、異文化理解や異文化尊重を育み、平和と心豊かな人類社会の発展を図る。

(注3)
http://toshio-hirano.sakura.ne.jp/Hirano/gurobaru_hua_dibo.html