森嶋通夫先生を偲んで(河野史男氏)

大阪大学名誉教授・森嶋通夫先生が、2004年7月13日午後(英国現地時間)、老衰のため、滞在されている英国ロンドン郊外で逝去されました。80歳でした。ご逝去を悼みこころよりお悔やみ申上げます。

森嶋通夫先生を偲んで、横山ゼミ18期の河野史男氏から寄稿いただきました。  

森嶋著「ある人生の記録3部作」のご紹介 ~森嶋通夫先生を偲んで~

森嶋さんとの出会い

私は1967年頃教養部のとき、森嶋さんの講義を受けました。直接的には最初で最後の出会いでした。当時ズック靴を履いて講義されていたことやアカデミックな内容が印象に残っています。

著作を読むと、当時学部から独立した社研の教授であったが、若い人の教育に関心を持ち、本人の希望でこのような講座が設けられたようです。また当時社研紛争が起きていたようです。直後英国へ移られました。事情を知らないので何故なのかの疑問が残りました。大学紛争のさなか卒業、その後はメディアで森嶋さんの名を時折見かけましたが、ノーベル賞はまだなのかなという程度の関心しか払いませんでした。

ずっと後になって1999年、岩波書店から出た「何故日本は没落するのか」が話題を呼びました。しっかりしたモデリングに裏付けられた明快な主張、無駄のない文章、一般向け書物であるが、流石だな思いました。

ここで紹介する「ある人生の記録3部作」は1997年から2001年にかけ朝日新聞社 から順次出版されたものです。入手するのが遅く、ここ1,2年で読んだものです。

今年7月2日東京待兼会総会がありました。出席中の同窓生でもある永谷教授に森嶋さんの近況を尋ねたところ、御本人の著作を目下翻訳中であること、既に文字も読めない状態のようだとのことでした。第3巻「終わりよければすべてよし」の脱稿の頃、軽い脳梗塞で入院した記述があったのと、タイトルや内容が示唆するところから終わりの予感がしていました。

暫くして、その月の7月13日、森嶋さんがロンドン郊外の病院で亡くなられたことを新聞で知りました。恐らくこの第3巻が最後の著作になったのだろうと思います。

第3巻の最後の節、2000年のシドニーオリンピック陸上をテレビ観戦していた時の記述が思い出されました。”浪高尋常科時代、甲南との対抗戦800メートルリレーで相手走者がこむらがえりをおこし 快勝したときのことを妻に話していると、涙が出てきて、私はむせんでしまった。 ・・・・・幸運と健康に恵まれ、77歳の誕生日を迎えられたのは走者4人のうち自分1人、そのことを考えると彼らが不憫に思えて、涙をおさえることができなかった。”

「ある人生の記録3部作」について

時代別に3巻から構成されます。

1巻「血にコクリコの花咲けば」は学生時代、学徒出陣の海軍時代を、2巻「智にはたらけば角が立つ」は主として日本での大学教官時代を、3巻「終わりよければすべてよし」は英国へ移ってからの大学教官時代から晩年までをそれぞれ対象にしています。

内容の1つの側面は、激動の時代、本人が何を考え、行動していったかの生き方の記録です。自分のプリンシプル(意地)を貫いていった生き方やユーモアを添えた表現が魅力的です。

同時に、当時身を置いた環境、そこでの出来事を観察した貴重な歴史的記録でもあります。学徒出陣の頃の教育環境や大学教官の行動、戦争末期の軍組織の状況や経緯など、英国では ヒックス、ロビンソンなど、かっての英国経済学界を代表した人達との交流が描かれています。

もう1つの側面は、人生の記録の背景である日本社会、対しての英国社会の構造の考察であろうと思います。後年森嶋さんが目指した交響楽的経済学の一環ともとれます。

なかでも明治以降の近代国家形成プロセスで、日本では、英国のような民主主義やリベラルな考え方が確立されなかったことに重点を置いています。そしてこのことが本シリーズのテーマでもある”私は京大でも阪大でも結果は良くなく、自分で辞表を提出した。しかしイギリスに 来てからは、大きい喧嘩は少なくとも同僚とは一度もなかった。それはなぜだろう。” に係わる部分でもあります。

以下、各巻の内容について、印象に残ったところを時代を追って紹介します。

第1巻「血にコクリコの花咲けば」 朝日新聞社1997年発行 1,800円

生涯愛した浪高時代(7年制)の思い出を振り返ります。そして高田保馬のいる京大へ。高田の「価値自由」の思想、生き方がその後の森嶋さんの人生に大きな影響を与えたようです。

大学2年の始め、学徒出陣で海軍へ、終戦、軍解散まで1年9ヶ月過ごします。

当時なぜ学生に反戦運動が起きなかったのか、昭和以降強化された国体思想を中心に 分析しています。

海軍では大村などの航空隊の通信士として暗号解読の任務に就きます。絶望的状況下、第一線の現場指揮官として奮闘する様にけなげな印象を受けます。この時の経験がその後学歴に捕らわれない現場主義の考え方に影響したと書いています。

一方、大和出陣時の経緯など、当時の軍上層部の非合理的な状況判断を、交わされた電文などを基に分析、記録しています。

第2巻「智にはたらけば角が立つ」 朝日新聞社1999年発行 1,800円

戦後京大へ復学、メイドインジャパンの理論経済学者としての道を歩んでいきます。

右翼から左翼へ、当時の教官の豹変ぶりが書かれています。1951年助教授を辞任し、設立間もない阪大法経学部へ。当時浪高尋常科の校舎が利用され、運動用具室が本人の研究室だったようです。

同室だったのが、森嶋さんの阪大就職に影響した横山助教授。その横山さんが突然数理経済学の分野から去って行きます。”横山は数年前に死んでしまった。こういう優れた才能 ―私ははっきりと認めながら-の人を、私が怒鳴り散らしたことによって失ってしまったことは、彼自身に責任があるとはいえ、私にとっても簡単に忘れうることではない。”と回想しています。

その後高田の意向でつくられた社研を、実質的なリーダとして世界水準に育て上げます。

後年起きた社研紛争、最終的に日本を離れる決意をする(1968年)までの経緯が詳細に記述 されています。

第3巻「終わりよければすべてよし」 朝日新聞社2001年発行 1,800円

客員教授として創設期のエセックス大学へ(2年間)。そこで目にした大学設立の際の手続き、人選、運営方法など、日本で苦い経験があるだけに、その合理性に共感を覚えたようです。

間もなくカルドア家で森嶋さんの歓迎会が開かれ、当時を代表する学者達が集まりますが、そこでLSE教授就任を要請されることとなります。以前来日したロビンソンを介して、お膳立てが出来ていたとのではないかと回想します。

こうして英国の経済学界に受け入れられ、またその一翼を担っていきます。ヒックス夫妻との家族的な交流をはじめ多くの学者との交流が記録されています。

LSEではサントリー、トヨタの基金をもとに、かって高田が真に意図した、経済学を核とした総合社会科学研究所(STICERD)設立に尽力、初代所長、LSE退官後も無償でその運営に携わります。

65歳でLSE(18年間)を退官、著作活動に入ります。この頃英国永住の意思を固め、そして故郷日本の代替をイタリアに求めることとなります。

英国に移ってからは学生教育にも力を注ぎますが、一方研究活動を旺盛に進めていきます。

本来の理論経済学に加え、リカード、マルクス、ワルラスの経済学説史、交響楽的経済学分野へと発展していきます。

最後に

以上、独断と偏見ですが、先日亡くなられた森嶋先生を偲び、自伝を紹介しました。

偉大な日本人の先輩の人生に対して敬意を払うと共に、ご冥福を祈ります。

2004年9月2日 東京待兼会18期、横山ゼミ 河野史男(現 システムコンサルティング業) 記

森嶋先生の系譜

1923年 大阪市生まれ。
1943年 (京都帝国大学経済学部在学中に)学徒出陣。
1946年 京都大学卒業 1950年京都大学助教授。
1951年 大阪大学法経学部助教授 英国オックスフォード大学、米国イェール大学留学。
1963年 大阪大学経済学部経済研究施設(後の社会経済研究所)教授
1965年 エコノメトリック・ソサイエティー(計量経済学会)会長に選ばれる。(日本人として初)
1968年 英国エセックス大学教授
1970年 英国ロンドン大学教授(同大教授は日本人としては初めて)
1976年 文化勲章 受章
1988年~ ロンドン大学名誉教授
1992年~ 大阪大学名誉教授

マルクスの「資本論」を近代経済学の立場で解釈、数学的手法で分析したことで国際的に高い評価を受け、長年、ノーベル経済学賞の有力候補者とされてきました。
一連の理論は「モリシマ・エコノミックス」(森嶋経済学)と呼ばれています。
第18~19期の会員は、この森嶋教授に教養部にて「経済原論」などの講義を受けたことと思います。

主な著書

・マルクスの経済学(1973年) 
・近代社会の経済理論(1973年)
・イギリスと日本(1977年)
・思想としての近代経済学(1994年)
・終わりよければすべてよし ある人生の記録